藤堂藩山崎戦争始末
清文堂史料叢書第116刊
伊賀古文献刊行会編


260年に及んだ江戸時代に終止符を打ち、近代日本が誕生する胎動の一つとなった「鳥羽・伏見の戦」(山崎戦争)。山崎出兵の指揮者・藤堂采女元施の手による克明な記録を収録する。


◆口 絵
◆凡 例
◆解 題……角 舎利
◆京詰中日記
◆覚
◆采女附属山崎表ニ而長州人入京ニ付応援人別書立帳
◆山崎表勤書合帳
◆高浜戦争勤書
◆あとがき




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ISBN978-4-7924-0650-9 C3021 (2008.3) A5 判 上製本 370頁 本体9000円
鳥羽伏見戦争における津藩の真相 
奈良大学教授 京都大学名誉教授 佐々木 克  
 慶應四年正月三日夜の鳥羽伏見戦争で敗れた幕府軍は、四日、淀城で陣営を立て直そうとしたが譜代の淀藩は応じなかった。そこで幕府軍は五日、山崎の関門の守備についていた津藩に助力を求めた。伊勢の国津の藤堂藩は、大坂夏・冬の陣における功労により、藤堂高虎が家康に厚遇をうけて以来、幕府の恩義を重んじ、幕末の激動期にも中立的立場を維持した外様藩である。王政復古政変の一週間前から、攝津打出浜に上陸した長州藩兵の京都進出を阻止するため、津藩兵は幕命で京都の西郊天王山麓の要害、山崎関門守衛の任に就いていたが、政変後も政府命令に従って、山崎関門の守衛にあたっていたのである。同じ五日夜、新政府から四条隆平が勅使として山崎に派遣され、津藩に幕府軍追撃を要請した、津藩は幕府と新政府の双方から協力を迫られたのであった。そして津藩は政府軍への協力を決意し、六日朝から、幕府軍に大砲を打ち込んだ。これが幕府軍の敗走を加速させたのである。津藩の動きが、戦争の局面を大きく動かしたのであった。
 四条勅使が、津藩の方向を決定づけたことは周知の事実である。とはいえ津藩の意志決定が葛藤もなくなされたとは思えないし、その間にいろいろ複雑な事情があったであろうことが容易に推測される。だがその真相については、ほとんど語られることがなかった。この歴史の淵に残された問題に、本書によって、いまようやく光が当てられたのである。
 本書は、山崎関門の守衛にあたった津藩伊賀上野城代藤堂采女とその家臣が残した記録である。藩主藤堂高潔は津に在国で、京都詰め藩兵の総責任者である家老藤堂帰雲は、徳川慶喜に同行して大坂城中に在ったから、津藩の行動を決断したのは、山崎で陣頭指揮にあたっていた采女と藤堂新七郎(伊賀付番頭)らであり、津の藩庁へは事後報告となった。この間の事情は本書の「覚」に詳しく述べられていて、協力を断られた幕府の使者の「憤怒」が、はなはだしかったことなども記されている。采女らは十月初旬に上京して、大政奉還から王政復古にいたる政局の変転を身近に体験したことにより、重大な局面に際して冷静に対応して決断することが出来たのであった。戦争はまさに筋書きのないドラマである。「高浜戦争勤書」は幕府軍に立ち向かった兵士一人ひとりの物語であるが、幕府軍を攻撃することに躊躇する者もいたことから、身分「上下の差別」なく「衆議を尽し」意思統一をはかったことなども記されていて、まことに興味深い記録となっている。