紀州陶磁器史研究
中村貞史著


骨董的価値観を排し、発掘調査の成果や確実な史料に基づいてその開窯から廃窯までの変遷、作品、経営形態、陶工等を解説。





■本書の構成

    
はじめに

  序 章 研 究 史
    
紀州陶磁器研究史


  第一章 紀州藩主の御庭焼

第一節 治宝以前の御庭焼
    
紀州藩と楽家/宗直の御庭焼

第二節 治宝の最初の御庭焼
    
徳川治宝/最初の御庭焼

第三節 偕楽園焼
    
西浜御殿/文政二年の御庭焼/文政十年の御庭焼/天保七年の御庭焼/天保十四年の御庭焼/偕楽園焼の陶磁器

第四節 西の丸焼
    
徳川斉順/天保元年の御庭焼/天保三年の御庭焼/天保四年の御庭焼/和歌山城西の丸跡の発掘調査

第五節 清寧軒焼
    
湊御殿/天保五年の御庭焼/天保十三年の御庭焼/弘化元年(天保十五年)の御庭焼

第六節 赤坂御庭焼
    
赤坂御殿清寧軒/赤坂御庭焼

第七節 おわりに


  第二章 重臣達の御庭焼

第一節 三楽園焼
    
水野忠央/三楽園焼/水野原遺跡/伝世品

第二節 香雪園焼


  第三章 紀州藩窯

第一節 南紀男山焼
    
男山陶器場/陶器場の開設と紀州藩/男山陶器場の変遷/崎山利兵衛/陶工/製品/製品の販売/箕島陶器商人/南紀男山焼関係記録集

第二節 南紀高松焼
    
窯体/窯跡発見の陶磁器片/南紀高松焼の開窯/文献にみえる南紀高松焼/偕楽園焼と高松窯/南紀高松焼の廃窯/伝世した製品/陶工/おわりに

第三節 南紀小山焼
    
小山陶器所/陶器所の開設と和歌山藩/小山陶器所の変遷/陶工/製品/製品の販売/おわりに


  第四章 民  窯

第一節 甚兵衛焼
    
寺島甚兵衛/寺島家由緒書/甚兵衛由緒書/寺島姓のおこり/御瓦師/甚兵衛焼/原甚兵衛

第二節 善明寺焼
    
善明寺焼/善明寺焼の操業時期/製品/窯跡の発掘調査

第三節 瑞 芝 焼
    
瑞芝焼の名称/瑞芝焼の開窯/窯場/鈴丸陶器所の経営/製品/陶工

第四節 大福山焼

第五節 太 田 焼
    
太田焼/太田焼の窯場/太田焼の操業期間/陶工/製品


  第五章 各  論

第一節 偕楽園焼にみえる「八詠」銘について

第二節 赤楽茶碗(銘―福禄寿)の作者について

第三節 田村高山について

  
資 料 編/紀州陶磁器関係年表/挿図出典一覧/あとがき




  ◎中村貞史(なかむら ただし)……1944年和歌山市生まれ 国学院大学大学院修士課程修了 元和歌山県立紀伊風土記の丘館長




 ISBN978-4-7924-1064-3 C3072   (2017.7)   A5判  上製本  巻頭口絵50頁(図版98点)・総406頁  本体9,500円

  
発掘調査の成果からみえる紀州の陶磁器

 紀州(和歌山県・三重県北牟婁郡及び南牟婁郡)では陶磁器のことを「瀬戸もの」と呼んでいるが、かつて紀州でも「瀬戸もの」が生産されていたことを知る人はあまりないであろう。紀州での生産は、江戸時代初期に始まり、十九世紀初頭から明治十年すぎまでの約八十年ほどがもっとも盛んであった。背景には、生活必需品としての需要もさることながら、紀州藩の積極的な援助があったと考えられる。本書は、江戸時代から明治時代のはじめにかけて紀伊国で焼かれた御庭焼・藩窯・民窯を取り上げるものである。

 紀州陶磁器の研究が始まったのは約一〇〇年前(大正時代後半)からであるが、かつては骨董的価値観に基づいた作品研究が中心でその論拠が曖昧なものも多かった。そこで本書では、発掘調査の成果や確実な史料に基づいてその開窯から廃窯までの変遷、その作品、経営形態、陶工等を解説している。

 歴代の紀州藩主の中には自ら御庭焼を行ったり、陶工に陶磁器を焼かせたりしたものがいる。御庭焼には、紀州藩主のものと重臣のものとがある。藩主の御庭焼では、六代宗直、一〇代治宝、一一代斉順のものが知られており、表千家六代覚々斎、七代如心斎、八代啐啄斎、九代了々斎、一〇代吸江斎が関与している。和歌山城内(西の丸焼)、和歌山城下の西浜御殿(偕楽園焼)・湊御殿(清寧軒焼)などの別邸、江戸の赤坂御殿(赤坂御庭焼など)などに、京から表千家宗匠とともに楽家六代左入、七代長入、九代了入、一〇代旦入、一一代慶入等を呼び寄せ焼かせたものである。治宝は、京焼の西村善五郎(保全)と高橋道八(仁阿弥)を呼び寄せて陶磁器も焼かせている。重臣の御庭焼では、紀州藩付家老水野忠央のものがよく知られており、彼が江戸市ヶ谷原町下屋敷で焼かせたものが三楽園焼である。これらは、主催者の楽しみのために製作されたものであり、世の中に出ることはあまりなかった。

 一方、藩の全面的な援助をうけてひらかれた藩窯には、南紀男山焼、南紀高松焼、南紀小山焼がある。国産の染付磁器を大量生産し、当時伊万里焼の仲買商人として活躍していた紀州箕島陶器商人の販売網を利用して、伊万里焼の様に全国へ売り捌こうと目論んだものである。しかし、最後まで藩に依存する体質が抜けきれず、採算が取れるまでには至らなかった。

 藩の援助を受けず独自に窯をひらいたと考えられる民窯には、甚兵衛焼・善明寺焼・瑞芝焼・太田焼があり、甚兵衛焼と善明寺焼は、伝世している作品が僅かで、その技術的系統も窯跡もわかっていない。瑞芝焼(鈴丸焼)は、青磁と諸窯を写した作品が特徴的で、七十五年間という最も長きにわたって操業している。太田焼は、明治時代はじめに偕楽園焼交趾写風の作品を焼いている。

 八十年前、小林太市郎「紀州陶瓷に就いて」(『紀州陶瓷聚成』)が発表されており、これは戦前における紀州陶磁器研究の総まとめともいうべきものであった。以後、太平洋戦争を経て現在に至るまでの紀州陶磁器研究に私見を加えてまとめたのが本書である。紀州にとどまらず陶磁器の研究を志す方に御一読いただければ幸いである。
(中村貞史)
※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。