言語の揺れ

日本語学講座 第10巻

今野真二著


さまざまに変化することば。
「揺れる」言語事象を、さまざまな文献から読み解く。
全巻完結 附・通巻索引




序 章 言語をどのように位置づけるか

第一章 テキスト間にみられる「揺れ」
  第一節 実録体小説における「揺れ」
    テキストの「揺れ」をどうとらえるか 使用語の揺れ テキストに「揺れ」が発生する原因
  第二節 明治の写本
    二―一 写本と版本
    二―二 資料について
    二―三 版本と写本との対照
    二―三―一 平仮名と片仮名と 二―三―二 どのように写していたか 二―三―三 本文の異なり
    二―四 振仮名について
  第三節 手書と印刷と

第二章 言語の「揺れ」と連合関係
  第一節 『源氏物語』青表紙本・河内本・別本の「揺れ」
  第二節 『貴船の本地』
  第三節 辞書の語釈

第三章 『節用集』にみられる「揺れ」
  第一節 伊勢本と印度本と
  第二節 印度本内部の「揺れ」
  第三節 訓の「揺れ」をどのようにとらえるか

第四章 明治期の辞書における「揺れ」
  第一節 『英和字彙』初版と再版との対照
  第二節 『[和英/對譯]いろは字典』初版と再版との対照
    「イシズミ」と「セキタン(石炭)」 「イトク(威徳)」「イギ(威儀)」「イセイ(威勢)」

第五章 自筆原稿における「揺れ」
  第一節 夏目漱石『心』の自筆原稿
    話と談話/切実と痛切/道徳的と倫理的  ことばの調子 副助詞の追加・変更 接続詞の追加・削除・変更 XトYト
  第二節 稿本『言海』

  ◎通巻索引(作品名・人名・事項名・語句)




 著者の関連書籍
 日本語学講座 全巻構成はこちらから

 今野真二著  仮名表記論攷

 今野真二著 大山祇神社連歌の国語学的研究



ISBN978-4-7924-1042-1 C3381 (2015.5) A5判 上製本 270頁 本体3,500円

言語の揺れ

 『節用集』を調べてみる。亀田本には「幽霊(イウレイ)」(い・人倫部)とあるが、伊京集には「幽霊(イユウレイ)」(同前)とある。そして原刻易林本には「幽霊(ユウレイ)」(ゆ・人倫部)とある。右の振仮名が「ユーレイ」というような発音をする一つの語を書いたものだとすれば、これらは、書き方の「揺れ」、つまり「かなづかいの揺れ」ということになる。『節用集』は七十を超えるテキストが残っている。その七十を超えるテキストを『節用集』という一つのまとまりをもつ文献であるとみれば、右のことがらは、そうした「まとまり」内での書き方の「揺れ」ということになる。

 原刻易林本には「幽霊(ヰウレイ)」(ゐ・人倫部)という見出項目もある。原刻易林本が編まれた時期にはア行の「イ」とワ行の「ヰ」との発音の区別はすでになかった。したがって、「イウレイ」「ヰウレイ」二つの発音=二つの語形があったということではないはずで、とすれば、原刻易林本は二つあった「書き方」をそれぞれ別の部にわざわざ収めていることになる。それは当該時期に「書き方」が揺れていたため、どちらの「書き方」からでも求める見出項目にたどりつけるようにという「配慮」にみえる。

 黒本本に「不審(イブカシ)」(い・言語部)という見出項目がある。その一方で、「訝(ユブカシ)」(ゆ・言語部)という見出項目もある。これも、先ほど同様、「イブカシ」からも「ユブカシ」からも見出項目にたどりつけるようにした「配慮」であるとみることもできる。ただし、この場合は、語の発音が「イブカシ」「ユブカシ」二つあった、もしくは「ユブカシ」と書きたくなるような発音の「イブカシ」があったとみることもできるかもしれない。そうだとすると、この「書き方の揺れ」の背後には「発音の揺れ」があることになる。

 原刻易林本に「車前草(オホバコ)」(お・草木部)という見出項目がある。饅頭屋本初刊本には「車前草(ヲバコ)」(を・草木部)とあり、原刻易林本には「車前草(右シヤゼンサウ/左オホバツ)」(し・草木部)ともある。左振仮名として施された「オホバツ」が過誤を含まないものだとすれば、この発音は「オオバツ/オーバツ」とみるのがもっとも自然であろう。「オーバコ」を起点とすれば、「オオバツ/オーバツ」は変異語形にみえる。饅頭屋本初刊本の振仮名「ヲバコ」は「オーバコ」の短呼形を思わせるのであって、「オオバツ/オーバツ」「ヲバコ」は、一つの植物の名が「揺れ」ていたことを示している。

 言語は変化する。それは「宿命」のようなものといってもよい。変化は「揺れ」をきっかけとして起こることが少なくないと考える。標準的な語形の周囲を非標準的な語形がとりまいているというモデルが考えられるが、「言語の揺れ」はさまざまなかたちで看取できる、言語学/日本語学にとって重要なテーマであると思う。
 (今野真二)