■萬葉の歌人とその表現 | |||||
村田正博著 | |||||
萬葉集における和歌の表現の検討を通して歌人たちの特性と位相を究明する。語句と文脈と、その両面について、いわゆる注釈的方法によって対象の精読につとめて、語句の含意・文脈の志向を追い、それぞれの歌人・作品の表現について、文芸の歴史の上に占める位置を量ろうと試みる。18の論考を、第1章「初期萬葉の歌人とその表現」第2章「盛期萬葉…」第3章「晩期萬葉…」の3つの時代区分にわける。とりわけ著者の関心は第3章にあり、それは和歌の歴史の逼塞にほかならないからである。 |
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ISBN4-7924-1376-1 | (2003.6) | A5 判 | 上製本 | 520頁 | 本体15,000円 |
■本書の構成 第一章 初期萬葉の歌人とその表現 第一節歌謡から創作の詩歌へ(宮廷文芸の開花) 第二節初期萬葉歌の射程(額田王(巻1-7)、井戸王(同-19)、有間皇子(巻2-141)をめぐって) 第三節深遠の報贈(鏡王女と藤原鎌足の贈答歌(巻2-93〜94)について 第四節久米禅師の妻問い(天智朝風流のおもかげ) 第五節天智朝の詩と歌と(文芸史の一定点) 第二章 盛期萬葉の歌人とその表現 第一節人麻呂の作歌精神(「吾等」の用字をめぐって) 第二節人麻呂の技法(近江荒都歌をめぐって) 第三節人麻呂の慟哭(高市皇子挽歌をめぐって) 第四節「柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首」の形成 第五節人に恋ふる歌(人麻呂歌集成立の一つの意義) 第六節盛期萬葉の一側面(高市黒人の抒情) 第三章 晩期萬葉の歌人とその表現 第一節旅人「吉野讃歌」の位置(「天地と長く久しく」を中心に) 第二節旅人と漢風の遊び(讃酒歌十三首をめぐって) 第三節旅人文芸の帰結(「亡妻挽歌」の形成をめぐって) 第四節家持と「山柿之門」(古代倭歌史の終着) 第五節家持の選択(部立ての放棄をめぐって) 第六節歌主の変容(家持周辺とそれ以後(一)) 第七節付合い文芸の源流(家持周辺とそれ以後(二)) |
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萬葉の歌人とその表現 | |||||
村田正博 | |||||
本書は、萬葉集における和歌の表現の検討を通して、歌人たちの特性と位相とを究明しようと試みるものである。 本書を構成する論考は、十八篇である。既発表のものの中から、この主題に沿う論考を選んで、発表時の趣旨を変改しない程度において修訂を加え、もって一冊の書物として編成する。発表時の趣旨を変改しないというのは、それぞれの論考の発表の時点での学界の情況における位置を、現段階においても、やはりとどめておくべきだと判断するからである。しかしながら、発表以後の学界の情況にも顧慮するべきことは言うまでもなく、修訂に当たっては、なるべく最新の研究成果にも言及を加えるように心がけた。 本書における方法の根柢は、語句と文脈と、その両面について、いわゆる注釈的方法によって、対象の精読に努めることにある。語句の含意するところに耳を傾け、文脈の志向するところに従って、それぞれの歌人、それぞれの作品の表現について、文芸の歴史の上に占める位置を秤量しようと試みた。注釈的方法に徹しようとするとき、対象とする語句と文脈とは、いわゆる注釈的方法に内包される領域ばかりにとどまらず、それらの布置されてある作品が形成された場について、さらにはその作品と場とが帯びる文芸の展開上の位置や意義について、相応の理解を導き出すことができる―、それが恩師伊藤博先生より受けた生涯の教えの一つであり、本書は、その教えを私なりに実践しようと努めてきたこの二十年余りの成果の、ささやかな集成という面をも持つ。その初志がいくぶんなりと果たせているかどうか、それを問うことが、したがって、本書を編述する目的ということになる。 構成するところは、大きくは、三章。萬葉集の時代区分の通説におおむね従って、 第一章 初期萬葉の歌人とその表現 第二章 盛期萬葉の歌人とその表現 第三章 晩期萬葉の歌人とその表現 の次第とする。 初期萬葉とは、いわゆる萬葉第T期(壬申の乱〈西暦六七二年〉以前)をさして言う。萬葉第T期と第U期(壬申の乱から平城遷都〈七一〇年〉まで)とを合わせて前期萬葉と言うのが一般であるけれども、本書では、前期萬葉のうち、主として柿本人麻呂が活躍する第U期を盛期萬葉として特立し、第T期をもって初期萬葉と称することにする。初期萬葉の充実、第一章において、まずそのことの認証を試みた。この時期の、相応の充実があったからこそ、盛期における飛躍が可能になったというのが本書の提言しようとする第一の点である。 ということは、本書は、時代で言えば萬葉第U期、歌人で言えば柿本人麻呂に萬葉集の頂点を見ているということである。第二章をそれに当てて、人麻呂以外の歌人としてとりあげる高市黒人に関しても、人麻呂を中心とする、その圏外にあったことの意味を探ろうとするのも、中心として人麻呂を評価するからにほかならない。 晩期萬葉とは、萬葉第V期(平城遷都より天平五〈七三三〉年ないし天平十一年まで)と第W期(それより天平宝字三〈七五九〉年まで)とを合わせて言う。大伴旅人(第V期)と大伴家持(第W期)とを考察の対象とするのは、その二人の歌人にこの時期の問題が集約されてあると考えるからである。この時期の問題とは、和歌の歴史の逼塞にほかならない。 私の関心は、最近、どちらかと言えば、この晩期萬葉の歌人とその表現を考察することに傾きつつある。盛期萬葉の人麻呂が、ひたぶるにうたえば丹精のままに高い達成を果たし得たのに対して、晩期萬葉の歌人たちにあっては、その奮闘にもかかわらず、和歌はやがて逼塞へと急展開を遂げてゆく、そこにこそ、いっそうの混迷の時代である現代に生きるわれわれの、文芸の源流と展開とを探る意義が、より多くあると思われるからである。 本書のよって立つ方法は、伊藤博先生のお教えに負うところが大きい。創設期の筑波大学のほとり、さながらドイツの黒い森のような早春の原野で、先生のお供をしてタラの芽を採ったことがある。街の子の、初めての体験でもあり、見つける枝も、見つける枝も、先生のすでに収穫された後ばかり―、どっさり収穫された先生に比べて、私の袋の中は、寥々たるありさまであった。折りしも、先生は、『古代和歌史研究』全六巻(『萬葉集の構造と成立』上下・『萬葉集の歌人と作品』上下・『萬葉集の表現と方法』上下)をまとめておられる最中であり、こんなに何もかも論じ尽くされたのでは、私などには、考えを進める余地など残されていないのではないかと驚愕を覚えた―、そのこととあのタラの芽採りの体験とは、その後いつまでも、奇妙に重なるものとして私の中に刻み込まれた。 刃物で刈り採ってしまうのでなければ、タラの芽は、二番芽、三番芽まで、われわれに収穫させてくれる―、その時、先生はそう教えてくださった。本書における私の考察が、そんな恵みにあずかり得るものになっているかどうか、そのことがしきりに思われてならない。 (「はしがき」より) |