徒然草というエクリチュール
−随筆の生成と語り手たち−
朝木敏子著
いかに『徒然草』は読まれてきたか。該書もまた「随筆文学」という術語の中に幽閉され、そのエクリチュールとしての内実を不問にされ続けてきた古典のひとつだ。本書はテクストの生成する〈今ここ〉に視座を定め、記憶の表象としての随筆の真実に迫ろうとする。あぶり出されてくるエクリチュール上の〈我〉の形象化――語り手の変貌を追跡することで、『徒然草』は中世にいたる仮名散文の流れの中に新たに置き直された。鋭利な思索の展開が中世随筆の生成を解き明かす。

朝木敏子
富山県生まれ
一九七九年 東北大学文学部文学科国文学専攻卒業
一九九七年 大谷大学大学院文学研究科修士課程修了
二〇〇三年 龍谷大学大学院文学研究科博士課程修了 博士(文学)
現在 龍谷大学非常勤講師

ISBN4-7924-1381-8 (2003.11) A5 判 上製本 172頁 本体4500円
●本書の構成

第一章 随筆―想起の場としての物語
回想する序文/『枕草子』と『徒然草』―回想するテクスト/想起の場としての心/日記というエクリチュール/集団の記憶と個の記憶/ 『たまきはる』の達成/記憶の技術/私物化される記憶/できごとの記憶と知の記憶/『枕草子』をつぎて書きたる物

第二章 『徒然草』の方法―物語場をめぐって
記憶の書としての『徒然草』/『徒然草』をめぐる問題点/物語叙述ともの定め/もの定めと言談の場/ことわる語り手/随筆としての『徒然草』

第三章 『徒然草』の言述―もの言ひする語り手
内なる我と外なる我/『徒然草』に見る言表行為/もの言ひの語るもの/もの言ひする語り手/筆録されるもの言い

第四章 自己言及する語り手―声への回帰
説話集の中の声/序跋に見る自己言及/見る身体と聞く身体/『沙石集』の見ることと聞くこと/モノローグの語り手/述懐ということ/説経師という身体/語るように書くこと― 声の文化と改稿作業/随筆ということ


徒然草の〈発見〉―『徒然草というエクリチュール』を読むこと
大阪大学助教授  荒木 浩
 待望の書である。それは、本書が、真摯に徒然草という「古典」の定位を志向していることにおいて。そしてまた本書が、そのことを語るのに、論理的に自覚的な言語で構想されていることによって。そのことを少し説明してみよう。
 「古典」と呼ばれる作品の中で、その出現が、文学史の構図、風景を全く変えてしまう、文字通りの画期的作品というのが、いくつかある。平安朝における源氏物語はその代表であり、そしてまた、中世の徒然草も、その一つである。しかし、両者には、そのパラダイム・チェンジの様相に、大きな違いがある。
 源氏物語は、作品の成立直後から〈享受史〉を生産し、つとにその超越的な作品の到達を讃えられ、模倣、転用、消費され続けた。結果、源氏物語の出現は、〈文学〉の枠組みをあからさまに変えてしまい、新たなテクストの歴史を紡ぎ続けた。それと対照的な〈傑作〉が、徒然草だ。  この不思議な作品は、成立事情の具体をあかさないのは無論のこと、作品成立の一世紀ほど後、歌人正徹によってその天才を〈発見〉されるまで、ひそやかに身を隠し、享受の歴史さえ明らかではないのである。そのことは、徒然草に対する同時代評価という理解の手だてをも失わせ、いきなり、この作品を、卓越した孤高の「古典」としてデビューさせることとなった。
 今でも、統一的な理解を拒むが如く、徒然草は、本当にとらえどころがない。歌人であった兼好が、自分の歌を一首も載せない散文として徒然草を成すこと。枕草子を彷彿とさせる書きぶりと内容を、枕草子末尾の跋文に通ずる、あの著名な文章を冒頭文として、執筆すること。そのくせ、枕草子はもとより、源氏物語を中心とする日本の多くの古典作品、また文選や白氏文集他の漢籍も、かなり読み込んでいるという。
 あなたは一体何なんだ。徒然草への真のアプローチは、その全的な理解を志向して、この愚直な問いを、いささか謎解きの楽しみをも含みつつ、精緻に繰り返し続けることでしか、達成できない。ところが、それがいかに難しいか。一度この作品の分析に手をそめたことのある人なら、誰でもわかっていることである。
 朝木氏のこの本は、あたかもそのすべてが、そうしたこの作品の同定に向けて、ねばり強く問いかけられている。日記、物語、説話、和歌など、あらゆる和文を俎上にのぼせ、それらを上手にたぐって、孤立から普遍へ、徒然草を少しづつ追いつめていく。
 そこでなにより強調したいことは、「国文学」に「しみついている」「テクスト実体視と感情移入という無方法の方法」(上野千鶴子)と時に揶揄される「方法」など、朝木氏の言説においては、およそ無縁であることだ。たとえば、第一章の鍵概念、〈記憶〉と〈想起〉の鮮やかな援用を一読するだけで、そのことはすぐわかる。徒然草や日本文学に留まらず、縦横に読み解かれた人文諸学の先行研究は、ひとまず著者の掌中に配され、本書全編で再生して、新しい理論の一翼を担おうとする。
 本書には、徒然草の読者が徒然草を定位するための基本条件、もしくはヒントが、概ねすべて呈示されているようだ。本書を、少なくとも二度精読してみる。そしてその上で、改めて徒然草を起点に、日本古代・中世の文学を再読してみよう。すると、徒然草は、再び強烈な〈個〉をあらわし、またとらえどころのない深みを現前するだろう。まさにその時こそ、著者朝木氏と読者との真の対話が成されうる〈場〉である。これが、どれほど快く有意義なものか。それは、その読書を体験した、あなたにしかわからないのだ。