(ふみ)と声わざ
―『宇治大納言物語』生成の時代―
木村紀子著


本書の構成
  序
T部 物語集の生成
   第一章 宇治大納言物語から宇治拾遺物語へ
   第二章 宇治大納言物語の語りと精神
   第三章 宇治拾遺物語の「書入れ」かた
U部 「口がたり」の展開
   第四章 「信濃国聖事」のなりたちと「信貴山縁起絵」
   第五章 観音語り土着と生成
   第六章 地蔵語りの古層と生成
V部 「声わざ」文化の担い手
   第七章 四鏡の設定した語り手
   第八章 京(みやこ)あたりの「声わざ」人たち
   第九章 梁塵秘抄「四句神歌」の担い手

   あとがき
   ◇主要語句索引
   ◇事項索引


ISBN4-7924-1388-5 (2005.1) A5 判 上製本 276頁 本体4800円
『宇治大納言物語』『宇治拾遺物語』研究の新視角
奈良女子大学文学部教授 千本英史
 これはちょっと意外なことだが、『宇治拾遺物語』の専著の研究書はほとんどない。論文なら数え切れないほどあるし、注釈も岩波の新旧大系はじめ、いずれの古典全集にも漏れなく収められている。けれど、この著名な作品について一冊まるまる取り組んだ研究書というのは、実はほとんどないのである。
 小峯和明氏の『宇治拾遺物語の表現時空』が出版されたのが一九九九年、おそらくこれが専著としての初の研究書刊行ではなかったか。その後、廣田收氏が『『宇治拾遺物語』表現の研究』(2003)、『『宇治拾遺物語』「世俗説話」の研究』(2004)の二著を矢継ぎばやに出されたけれど、思い当たるのはそれくらいである。約二〇〇話からなる、この比較的小さな説話集は、読者として読むにはまことに楽しい物語だけれど、いったん研究対象として接するや、とうてい一筋縄ではいかない難物なのである。私は、その外面のやさしさだけに惹かれて、この作品を卒業論文に取り上げようとする学生に対しては、「宇治拾遺はむつかしいよ」とまず釘をさすのを常にしてきた。
 その難物の説話集を相手にして、しかもその淵源である『宇治大納言物語』を正面に据えて論じたのが、本著『書(ふみ)と声わざ―『宇治大納言物語』生成の時代―』である。国語学者である木村紀子氏は、この難題にことばの分析から取り組もうとする。しかもそこで目指されるのは口頭言語、語りことばの分析である。すでにして『古層日本語の融合構造』(2003・平凡社)でみずからの立場を確立され、中世語についても『塵袋』1・2(2004・平凡社東洋文庫)の注釈のある氏ならではの、縦横な分析が展開される。
 これまでから何人かの説話集研究者の間で、木村紀子氏の論文はしばしば話題にのぼってきた。「国語国文」や御所属先の大学紀要に載った論文をコピーして、読んでいたのである。それらの論文が一著に系統的にまとめられて収録されたことはうれしい。
 木村氏は、元来あまりに学会に出ずひとりで思索を深めていくタイプの学者さんである。何人かの研究者は、そうしてコピーで論を追っていたけれど、氏の説が全体的に論議の対象となることは少なかった。何年か前、私はお願いして、ある学会で氏に発表してもらったことがあるが(その発表は本書の第四章にまとめられている)、その際も質疑応答などではフロアとの意思の疎通がうまくいったとはいえなかったようだ。氏の説が宇治拾遺を始めとする中世説話を考える研究者にとって、まだ遠い存在だったからだろう。
 氏は本著で、『宇治拾遺物語』に現在所収されている説話を、『宇治大納言物語』にもともとあったであろう説話と、院政期末と鎌倉中期の二度にわたる増補説話とに分かち、また時代別に六期に分けてその特質を論じている。文言の一字一句にまで周到な目配りをする近代的な作者が想定されているところや、その作者の背性格づけを源隆国という個人の「実像」に即応させるところなど、私などのように思い切りの悪い人間は、とまどいを覚えるところがないわけではないけれど、それはこの著の切り開く論点の鮮やかさの前では小さなとまどいである。
 数年前まで、年に何度か、氏を中心にした奈良大学の様々な分野の先生方に私も交ぜてもらって、研究会をしたことがある。研究会やその後の酒席で氏の卓越した視点の話を聞くのはとてもたのしみであった。今回いただいたゲラをめくりながらその楽しかった日々を思い出している。一人の木村ファンとしても、心から本書を推薦したい。