仮名文字遣と国語史研究
安田 章著


仮名表記・仮名文字遣に関する5篇の論考をはじめ、文法論・表現論、外国資料を介した近世語の実態の考察、対馬藩の朝鮮語通詞の手になるハングル書きの難波津の歌についての論考などを収める。


本書の構成


第一章 仮名文字遣原論
  仮名文字遣序
  仮名資料序
  仮名資料
  吉利支丹仮字遣
  仮名資料としての虎明本

第二章 近世語の断面
  コソの中世
  アドリブの意味
  日本語の近世

第三章 外国資料による国語史研究
  国語史研究のために 
捷解新語と康遇聖
  司訳院倭学書研究
  ハングルの難波津
  復権康遇聖
韓国人の遺した日本語史文献
  「朝鮮司訳院日満蒙語学書断簡解説」以後
  外国資料

付 章
  資料復刻・索引





ISBN978-4-7924-1414-6 C3081 (2009.9) A5判 上製本 310頁 本体8500円
これからの国語史研究の出発点
清泉女子大学教授 今野真二
 講筵に列なったことはないが、稿者が仰ぎ見続け、そして、たった一度ではあるが、確かに、また直にお教えを受けたと思うことのできる機会があったことをもって、ここでは安田章先生と呼ぶことを許していただきたいと思う。
 その「たった一度の授業」は平成十八(二〇〇六)年十二月二日に龍谷大学大宮学舎の非常勤講師控室で行なわれた。この日は稿者が第八十四回国語語彙史研究会で、「漢字(列)と振仮名との結びつき」と題する口頭発表をすることになっていた。そのことを知った安田章先生がわざわざ聞きにきてくださるということが事前に稿者に知らされた。
 今改めて調べてみると、平成十四年七月十四日付けの安田章先生の御状に「いつか一度お目にかかりお互いの目指す方向とかそのために採るべき方法とか深い所での話をとくと交わさなければならないのではないかと考えています」とある。お叱りを受けるのかという気持ちもあり、また一方ではこのように言っていただいたことのかたじけなさもあり、といって、稿者ごとき者がのこのことお目にかかれるわけでもないので、なかなかその機会を得ることができなかった。
 しかし先に記した国語語彙史研究会の折には思い切ってお会いしてお話をうかがいたいという気持ちが強くなり、遠藤邦基氏他いろいろな方のご尽力もあって、その機会をもつことができた。稿者はこの日のために、自身の発表の準備の他に、安田章先生の御著書五冊と、今回の『仮名文字遣と国語史研究』第一章に収められることになった表記についての御論考四編とを読み直し、いわば「下調べ、下準備」をしていった。貴重な「授業」になることはわかっていたので、遠藤邦基氏に、「安田先生の貴重なおことばをちゃんと記憶し伝えるために、同席してください」とお願いしたが、「二人でないと話せないこともあるから」というおことばであったので、責任の重さを感じたが、そのおことばに従うことにした。
 「授業」は「『節用集』はどうするつもりだ」という御下問から始まり、一時間強にわたり、さまざまな話柄に及んだ。その中でもやはりしばしば仮名表記をめぐってのことが話題となった。稿者が「仮名の機能の変遷」を描くことが今後の課題の一つだと思うと申し上げたところ、安田章先生は厳しい表情をされて「どうしてそんなことを言うのか」というようなことをおっしゃった。表情が厳しかったので、何か失礼なことか見当違いのことを申し上げてしまったかと身がすくむような思いがしたが、今回「下調べ」をしていて改めてそう思った、と申し上げると、表情を和らげ、「今ちょうどそう考えていて、しかもそれをたった一つの資料で書こうと考えている」とおっしゃった。ほっとすると同時に嬉しくもあったが、「たった一つの資料」とは何ですかという質問はあまりに不躾に思えて、とうとうそれをうかがうことができなかった。
 思い切ってうかがえばよかったという後悔のような気持ちをしばらくもっていたが、今はむしろ、これは稿者を含めた後進に与えられたレポートの課題なのだと思うことができるようになった。「一つの文献を使って、仮名の機能の変遷を描け」、稿者には稿者なりのレポートがだんだんと準備されつつあるが、果たしてそれが安田章先生の合格点をいただけるものかどうか、それはおぼつかないが、それでもいつの日かそれを書いてお目にかけたいと思っている。
 この拙文の題名を「これからの国語史研究の出発点」とした。曲のない題名であるが、「これから」「国語史研究」「出発点」は本書のキー・ワードでもあると考える。三浦雅士は終刊号となった雑誌『大航海』第七十一号(二〇〇九年新書館刊)の末尾に「時代概念の終わり」と題した文章を載せている。そこには、一年を一つのサイクルとして、そして次の年は前の年を引き継いで、営々と続けられていく農業をイメージモデルとする「時代」という概念そのものが消失しつつあることが述べられている。
 安田章先生はかつて拙書『仮名表記論攷』(二〇〇一年清文堂出版刊)について書いてくださった文章の中で、池上禎造「文字論のために」(一九五五年『国語学』第二十三輯)についてふれている。拙書がそうした位置にあるのかどうかは別として、そこに文字・表記研究の「流れ」を認めている故のことと思われる。稿者の源に安田章という強い流れがあることはいうまでもない。「流れ」は「歴史」と言い換えることができ、「歴史」は時代時代が切れながら続いていくことによって形成されるといってもよい。「今、ここ」に重点を置きすぎると「流れ」は見えなくなる。「流れ」を見ないために「今、ここ」のみを凝視するのかもしれない。研究の継続性がとぎれつつあると感じることが多くなってきた。そういう時代にはそういう時代の良さもあろうが、やはり危惧もある。そうした時代であるからこそ、本書を「出発点」としてみたらよいのではないかというのが稿者の気持ちである。
 「あとがき」には、(安田章先生の論文は)「用例の扱いがあまりに厳密で、かつ詳細であるために、なかなか大筋がつかみにくいという嫌いがないとはいえないが」とある。稿者は倍率が極端に高い顕微鏡を覗いているような感じを受けることがある。それは、さまざまなことがらを検討し、勘案し尽くした後で、問題を局限まで絞って設定しているためかと思われる。「一つの文献を使って」は象徴的であった。問題が絞られているために、論文の読み手はその絞られている核心にいきなりは入っていくことができずに戸惑うことになる。しかしまたそうであるとすれば、なぜそのことがらがその文献によって述べられているのかを読み解くことができれば、論文には書かれていない隠されたストーリーに辿り着くことができるはずでもある。隠されたストーリーは新たな課題を呼び起こすこともあろう。あえて「出発点」と題したのは、本書が豊かな源流であることを確信するからでもある。本書を多くの人が読み解き、国語史研究のさらなる地平が開かれることに期待したい。 


※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。