幕末維新期大名家における蒸気船の導入と運用
佛教大学研究叢書45
坂本卓也著


ペリー来航を機に、加賀前田、芸州浅野、長州毛利家といった諸大名家は、幕府以上に白紙の状態から蒸気船という西洋文明の粋を導入した。しかし、中古品であったり、逆に新機軸すぎて故障時の対応に在来型以上に苦慮したり、石炭補給等の問題にも難渋した。これらの幕末から明治初頭、ひいては明治中期の煉炭導入問題に至る試行錯誤と悪戦苦闘から、日本の近代化の一面を描く。




■本書の構成


序 章
  はじめに/幕末維新期の蒸気船に関する研究動向/本書の課題と分析視角/本書の構成

第一章  芸州浅野家における軍備増強と蒸気船導入過程
  はじめに/芸州浅野家の軍備増強と軍制改革/芸州浅野家の財政状況/芸州浅野家における西洋艦船の導入/蒸気船導入による影響/おわりに

第二章  加賀前田家における西洋艦船の導入と運用構想 ―「理想」から「現実」へ―
  はじめに/艦船獲得前の構想/発機丸の仕様と活用実態/慶応期における艦船の導入と活用/艦船の運用経費/おわりに

第三章 芸州浅野家における蒸気船運用
  はじめに/人材の確保/石炭補給体制/蒸気船の修理体制/おわりに

第四章 長州毛利家における蒸気船運用
  はじめに/人材の確保/石炭補給体制/蒸気船の修理体制/おわりに

第五章  幕末期における蒸気船運転と蒸気機関 ―加賀前田家の発機丸を事例に―
  はじめに/発機丸航海記録に見る航海の実態/発機丸の蒸気機関について/おわりに

終 章
  各章の総括/大名家における蒸気船の導入/大名家における蒸気船の運用/幕末から明治への繋がり―土屋平四郎を事例として―

 あとがき
 索 引


  ◎坂本卓也
(さかもと たくや)……1976年、広島県生まれ 九州大学大学院理学研究科地球惑星科学専攻修士課程修了 修士(理学)/佛教大学大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程修了 博士(文学)



 
◎おしらせ◎
 『科学史研究』第Ⅲ期第62巻№306号(2023年7月号)に書評が掲載されました。 評者 𠮷田 勉氏




ISBN978-4-7924-1499-3 C3021 (2022.3) A5判 上製本 236頁 本体6,400円

  
蒸気船が運用されることの意味

佛教大学名誉教授 青山忠正  

 私が「蒸気船」という言葉を聞いて真っ先に連想するのは、ペリー来航ではない。次の事件である。慶応二年(一八六六)正月二十二日、西郷隆盛らとの間で、いわゆる「薩長同盟」に関わる交渉を終えた木戸孝允は大坂に下り、薩摩屋敷に滞在の後、二十四日深夜、薩摩船で帰国の途に就く。この船には鹿児島に向かう大久保利通も搭乗していた。二人は二十六日に木戸が御手洗港で下船するまで、「呉越同舟」だったのである。この間、何も話し合わなかった、と見るのは不自然だろう。むしろ、「薩長同盟」に関わる細かな実行手順や、明文化されなかった事項までもが口頭では言い交された可能性もある。船内というのは密談に格好の場所ではないか。この船が、蒸気船の三邦丸であった。

 つまり蒸気船はこの当時、確実な人の移動・物資輸送の手段として、すでに実用化されていた。例えば、土佐の場合で見ても、高知の浦戸を発した蒸気船は、淡路島を東回りで迂回し、一昼夜で大坂港に着く。そこから京都までは一日の行程である。慶応期に、薩摩島津や土佐山内、それに芸州浅野など西南の諸大名家が京都政局に深く関わるにあたって、蒸気船は不可欠の手段であった。象徴的に言えば、蒸気船がなければ、土佐の「大政奉還」建白など成立しなかった、と言えようか。

 さて、そうなると次なる重要な着眼点は、徳川幕府にせよ、諸大名家にせよ、蒸気船の運用技術をどのように習得し、また実際に蒸気機関を運転し得ていたのか、あるいは機関を修理できたのか、さらには燃料となる石炭を恒常的に補給できたのか、といった運用に関する具体的な諸問題である。

 これらの課題を、はじめて総体として、正面から論じた著作が本書である。とくに加賀前田家の発機丸を事例として取り上げた第五章では、蒸気機関を運転する際の蒸気圧のデータが分析されている。これまでの研究では言及されていなかったというが、これには著者が二十代の頃に、国立大学の大学院理学研究科修士課程を修了していることが、大きな力となっていよう。文科系の出身者には、「二段膨張機関」や「表面復水器」といった純粋に技術的な問題は、用語を見ただけでも敬遠したくなりそうなことだからである。

 発機丸は、文久三年十二月(一八六四年二月)に将軍家茂が上洛する際、供奉船として徴用される。将軍座乗の艦は徳川海軍の翔鶴だが、これもむろん蒸気船である。それにしても、「攘夷」論が高揚した文久三年当時に、征夷大将軍が外国から輸入した蒸気船の艦隊で上洛する、というのはいささか皮肉に見えなくもない。これも種明かしをすれば、「攘夷」とは、決して単純無類な夷狄の撃ち払いを言うのではない、ということの証拠でもある。技術的な面での採長補短は、思想とは別の次元で、十九世紀日本において一貫して追求された課題であった。その実相を、本書は技術史のレベルを超えて実に具体的に解き明かしてくれる。

※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。