幻の鎌倉執権三浦氏
関白九条道家凋落の裏側
鈴木かほる著


三浦半島を本拠として全国にその支配を広げ、公家と親交する中で仏法界や芸能界に入り込み、列島規模で海上交通を掌握した三浦氏。しかし九条道家による三浦氏を執権とする企てが発覚し、北条氏の外戚安達氏によって戦いを仕掛けられ、三浦氏惣領泰村以下は源頼朝の法華堂で自決した。この合戦で三浦義村の娘・矢部禅尼の子らが北条氏について生き残り、三浦氏の血統を伝えていく。




■本書の構成


  〈プロローグ〉なぜ書名が『幻の鎌倉執権三浦氏』なのか

第一章 実朝暗殺から承久の乱へ

  三浦義村と鎌倉殿三寅の迎立/後鳥羽の院宣の思惑

第二章 三浦義村と京都政界

  三浦義村と新天皇の擁立/院御廐司・西園寺家と三浦氏/三浦義村の鎌倉殿三寅の改姓申請の意義/三浦義村の人事介入と周旋/三浦義村の「遏絶」は道家の関白職を指すのか

第三章 三浦一族の芸能と仏法界

  三浦義村と仏教界/三浦光村の芸能

第四章 三浦一族の海上ネットワーク

  日本列島にみる三浦一族の所領/若狭守三浦泰村と能登守光村/駿河守三浦義村/遠江国笠原荘の地頭佐原義連と遠州灘における築港/紀伊守護佐原義連と八事裏山窯瓦/紀伊守護佐原義連と熊野別当/紀伊守護佐原家連の支配/肥前守佐原家連と僧俊芿/紀伊守護佐原家連と南部湾築港/紀伊守護佐原家連と熊野海賊/和泉守護佐原義連/淡路守は三浦義村か/讃岐守護三浦義村/土佐守護三浦義村/大隅守三浦重隆/小 括


第五章 南宋貿易の掌握

  三浦泰村と筑前国宗像社領/宗像社大宮司と三浦氏/三浦氏の南宋貿易と鐘御崎・和賀江嶋の築港/三浦氏惣家滅亡と大宮司宗像氏

第六章 幻の執権三浦氏の軌跡

  序/後嵯峨の譲国と九条道家の画策・六条宮擁立/九条道家と二男関白良実との確執/北条経時の卒去と宮騒動/三浦泰村の宮騒動の周旋と九条道家の起請文/宮騒動と九条道家の二度目の起請文/六条宮と名越氏/三浦氏と久我家と六条宮/猛将らによる北条氏調伏と入道頼経の追却/九条道家の三度目の起請文/三浦光村を将軍頼嗣の後見として帰洛か/三浦執権とする密約と三浦氏滅亡/九条道家と三浦氏が目指した身分秩序の正当性とその行方

第七章 三浦氏残党の余執

  建長騒動と三浦の了行法師/弘長騒動と三浦の良賢律師/小 括


第八章 矢部禅尼と宝治の乱

  三浦義村の娘矢部禅尼/北条泰時との婚儀/矢部禅尼の改嫁/佐原家女家長・矢部禅尼の差配/宝治の乱後の佐原三兄弟の位置/悲田院の尭蓮上人

 おわりに
 あとがき
 参考文献


附 録 日本地図に落とした「鎌倉期における三浦一族の海上ネットワーク」の出典

 人名索引




  ◎鈴木かほる
(すずき かほる)…………神奈川県生まれ 國學院大學文学部卒業 瑞宝単光章受賞


ISBN978-4-7924-1507-5 C0021 (2022.7) A5判 上製本 216頁 本体4,800円

  
なぜ「幻の鎌倉執権三浦氏」なのか

 鈴木かほる  

 鎌倉時代、三浦氏全盛時代を築き、御家人筆頭の地位に伸し上げたのは、謀略の人と称された惣領義村である(為継|義継|義明|義澄|義村)。義村は摂関家九条道家・将軍頼経父子を介して、頼経の祖父西園寺公経との絆を深めていく中で高く評価され、京都の政界や仏教界に入り込み異彩を放った人物である。だが、子息泰村の代で呆気なく滅亡する。『吾妻鏡』によれば、宝治元年(一二四七)、執権北条時頼の外戚安達景盛に戦いを仕掛けられ、主たる御家人の猛将らが三浦方に与し、諸国より郎従眷属が鎌倉に来集し勝算があったにもかかわらず、応戦することなく源頼朝の法華堂に立て籠り、宗たる輩二七六人都合五百余人はその日のうちに自刃したとする。なぜ戦わずして屈する道を選択したのか、これについて疑問を呈する研究者はなく、今なお三浦氏滅亡の通説として踏襲されている。『吾妻鏡』や公卿の日記などの記述からこの疑問を解いたのが本書である。

 結論を述べるとすれば、関白九条道家は子息頼経と語り合い、三浦氏を執権職に就けるため官職を極めさせた上で、主たる御家人の猛将らに執権北条氏調伏の法を行わせ、これが露顕し、鎌倉に止まっていた前将軍頼経は帰洛させられた。これによって九条道家は政治の道が閉ざされ、摂家将軍の復帰は絶望的となった。これを千載一遇の好機とみた北条氏の外戚安達氏によって戦いを仕掛けられ、三浦氏は戦わずして屈する道を選択したのである。これが本書を「幻の鎌倉執権三浦氏」と題した理由である。 

 関白九条道家の子息三寅 (二歳のち頼経)を将軍実朝の後継者として迎えることを後鳥羽院に奏上したのは、道家に付き従っていた三浦義村である。義村の上奏を可能としたのは、後鳥羽院が道家を通して義村を見知っていたからに他ならない。このとき義村は、必ずや治天の君を御護りする鎌倉殿として養育することを誓い、頼経は義村の子息光村によって養育された。頼経は将軍となってもなお光村を実父のように慕うのである。三浦氏滅亡の原点は、そこにある。

 もう一つ注目すべきは、三浦一族が頼経の父道家や祖父西園寺公経から与えられた所領は、日本列島全体に及ぶものであったことである。当時の交通の手段は海路であることを鑑みれば、このことは三浦氏の海運力に道家や公経らが期待したものに他ならない。日本列島臨海に展開された三浦氏の海上ネットワークの地図も見て頂きたいと思う。

※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。