語りの再生
矢口裕康著


本書の構成

第一章 語り聴かせを子ども達へ
 観聴きする学生/聴く力を育む/「桃太郎」から語り聴かせへ/「ねずみの嫁入」から語り聴かせを/『アフリカのぷくぷく』を語るために/まとめとして

第二章 「うさぎとかめ」から語り伝えたいこと
 「うさぎとかめ」に対する私の視点/タイトルをとらえなおす/採話と再話そして学生の反応/子どもへ、どう「兎と亀」に出会ってもらえるのか/学生の創った「兎と亀」後日譚/まとめとして

第三章 「半ぴのげな話」を語りつぐ
 半ぴと九州/半ぴのげな話とは/半ぴのげな話と現在

第四章 ことばの素材と子ども達
 はじめに/現在の児童図書における民話素材/昔話「笠地蔵」を作品化することとは/古本屋と紙芝居

第五章 「語り部くらぶ」から学びとろう
 はじめに/「かぜ」と言葉/クリスマスからの言葉/七夕とことば/色から感じる言葉

第六章 学生と共に授業をつくる
 「語り聴かせ」を学生と共に/障害は「障がい」では―二〇〇五年総合演習の授業より―/短大一年生の「子ども」色/宮崎県をキャッチフレーズで表現

第七章 わが家の本棚から
 はじめに/どうして「こいのぼり」をあげるの/「あんぱんまん」を語り継ごう/浜田廣介を絵本から味わう/俵万智とこども/新旧『童心社紙芝居ケース』から紙芝居の語り方をつかもう/がいこつから考える/谷川俊太郎という絵本作家/母音を大切に/「おおいみえるかい」という大型絵ばなしそして絵本/宮崎県出身の絵本作家/絵本っておもしろい

 初出一覧
 あとがき ―「六月二〇日からの出発」―


著者の関連書籍
矢口裕康著 民話と保育



ISBN978-4-7924-0635-6 C0039 (2007.10) 四六判 並製本 214頁 本体1900円
えにし
鈴木真喜男
 本書の著者は、かねてから、普通《読み聞かせ》とよばれる教育活動について、その内容の質的向上をはかって《語り聴かせ》と改称すべきことを提唱してきた。すなわち、読み聞かせにあたっては、あらかじめ素材についての知識とデータ、そして、実施計画を十分に用意して、読み手・語り手の感性を錬磨する必要性を強調し、こうすることによって、こどもの感性をやしなうことができる、とする。
 本書は、この提唱について、著者が勤務大学で担当する保育士・小中学教員の養成課程等での諸講義と、それに対する受講学生のなまの反応の詳細な実践記録であり、さらには、《障がい者》に対するボランティア活動の記録等をもふくんでいる。そこには、多彩な視点からの斬新な方法が列挙されており、啓発されるところ多大である。わたくしも、一読、むかしわがこに無造作によみきかせていたことをひとり汗顔した。こそだて中の御両親がたにも是非一読をおすゝめしたい本である。
 さて、本書は、一つにはこの六月になくなった著者の恩師へのレクイエムとして、いま一つにはこれを機に著者みずからの教員生活三十一年間の研究をさらに一層深化させるべく、そのあらたな出発点に、とかゝれたものである。
 本書刊行にあたり、著者は、その研究開始の端緒となった宮崎女子短期大学赴任へのなかだちをつとめた御縁・えにしをもって、わたくしにも一文を徴された。この懇書に接し、わたくしは、反射的に恩師金田一京助先生のおうた
 道のべに咲くやこのはな花にだに
 えにしなくして我が逢ふべしや
をおもいおこした。先生は、ひととひととのえにしをこよなく大切にされた。
 本書の著者またしかり。その担当時数のおゝいにもかゝわらず、学生とのつながり・えにしを大事にされていることも、本書のはしばしから分明である。
 著者の懇書は、わたくしに、茫漠たる記憶のなかから当時の場景を豁然とよみがえらせてくれた。と同時に、「暮歯」「 老」などの語を実感しつゝあるわたくしに、一陣のみずみずしい生気をふきこんでくれた。望外のことであり、著者に満腔の謝意を表する。とともに、この拙文がおもとめにかなうかいなかを、危惧することしきりである。               (東京学芸大学名誉教授)

心を用い 意を行う
野村敬子
 少子時代と騒がれ、子どもの生育事情にも時代の切迫感が見えはじめた。子どもの保育に政治の介入や時流の力みは危険である。
 心を用い、意を行う実践情熱にこそ多くの可能性は内在するのではないか。少なくとも本書『語りの再生』には、そう思わせてくれる保育教育のユニークな実践と方法・その根底を支える情熱が横溢する。しかもそれは強い意志に基づく。
 「(承前) 物も足ざる所あり 智も明かならざる所あり 数も逮はざる所あり 神も通ぜざる所あり 君の心を用い 君の意を行へ」(『楚辞』)
 若い頃から座右の銘としている詞の如く、『語りの再生』には現状を踏まえ、それを超える著者の心を用い意を行う実践記録が綴られる。著者が長年昔話研究に携わり、伝承動態や昔話枯渇への危機を認識しての『語りの再生』となったことが理解出来る。
 短期大学保育科で教鞭をとる著者は「子どもは『個ども』である」という。「その個は『個人の個であり』『個性の個でもある』この二つの個を成長させてゆく過程」こそが子ども時代と言い切る。実に明快な見地である。そして言葉遊び的で愉快でもある。日々変身する子どもを育てた母親の一人として、私などは俗に言う「目から鱗」の感がある。この意味で本書は昔話語り活動の教養書として、世の「語り手」を目ざす方々に読まれ、多彩な実践に触れていただくのも意味深い。読み聞かせ活動も盛んなところから、この熱く厳しい指導実態をかいま見てはと願ってもみる。
 著者は昔話の絵本や紙芝居に対して「読み聞かせ」から「語り聴かせ」へ高めようと提言する。そこでは通りいっぺんの読み手を強く拒否し、昔話作品を自分の血とし肉としつつ聴き手の前に立てと説く。しかも「語り手」には五感(身体感覚)と五官(目・鼻・耳・舌・膚)そして語感(言葉の微妙なニュアンス)の三カンを磨くことを課している。加えて語りの声質分析など声への吟味もある。昔話を伝承文芸とし再生し、個どもたちに還すのである。指導の場から抽出する語りとは、全人的な力をもってする営み。そしてそこに再生された「語り手」とは真に人間らしさを喚起する存在と認識させられる。伝承の本源に戻して再生した昔話を「声は心の温度計」と、声の豊かさで伝える手法には脱帽する。
 著者と学生の響き合う心、痛みを知る心、師を失った日の著者再生「あとがき」の真価を理解したい。     (昔話研究者)