■公室年譜略 | |||||
−藤堂藩初期史料− | |||||
清文堂史料叢書第109刊 | |||||
上野市古文献刊行会編 | |||||
本書は、藤堂藩の初代藩主藤堂高虎・二代高次・三代高久の事績を、藩士喜田村矩常が編年集成したものである。書題からは藩主藤堂家の事跡の単調な簡略年譜の印象を受けるが、中身はきわめて濃密であり他の史書では得られない要素を豊富にふくんでいる。 編者の関連書籍 上野市古文献刊行会編 高山公実録 全2冊 上野市古文献刊行会編 藤堂藩大和山城奉行記録 久保文武著 藤堂高虎文書の研究 伊賀古文献刊行会編 藤堂藩山崎戦争始末 藤谷 彰著 近世家臣団と知行制の研究 |
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ISBN4-7924-0523-8 | (2002.7) | A5 判 | 上製本 | 1000頁 | 本体16,000円 |
誠実で詳細な津藩成立史 | |||||
早稲田大学文学部教授 深谷克己 | |||||
津藩の藩政史料は、原文書の伝存数は少ないが、その欠を補うのが、『宗国史』(藩法編纂)を中心とする『高山公実録』(藤堂高虎伝記)、『永保記事略』(伊賀城代家老日誌)、『庁事類編』(同)などの編纂史書や、早くから編まれた地誌類であり、それらを総合して藩史の大筋をうかがうことができる。今回、先記の編纂史書を次々と翻刻・公刊してきた上野市古文献刊行会の苦心によって、さらに『公室年譜略』が公刊されることとなった。 『公室年譜略』は、書題からは藩主藤堂家の事跡の単調な簡略年譜の印象を受けるが、中身はきわめて濃密である。それが編まれた一八世紀七〇年代の当時としては、可能なかぎりの史料の入手と吟味、史実確定の努力を踏まえた、誠実で詳細な津藩成立史であり―高虎から高久までの三代記を目指したが実質は高虎・高次二代記―、他の史書では得られない要素を豊富にふくんでいる。例えば、江戸藩邸や大名参勤の義務でもある江戸防火の記事、津藩と公儀・朝廷との関係、諸家臣の個別的な記事、津藩下総領分の記事など、『公室年譜略』ならではの関連法令や記事に触れることができる。藩主家についても、高次が高通に五万石を分知したのは、高虎が高次の弟高重に五万石を分知したが早世して家が起こせなかったので、「先考ノ遺意ヲ後世ニ垂れ玉ハントノ考慮」であったというのである。 『宗国史』と『公室年譜略』を比較すると面白い事実に出会う。一例をあげよう。『宗国史』に、寛文七年(一六六七)閏二月二四日の奉行言上(「御救覚」)がある。これは前年からの不作で困窮した村方への救済措置の実況とそれに対する領民の評判の報告である。この年は公儀巡見使が諸国に派遣される年だったが、津藩は巡見使の沙汰がない段階で御救を実行したので、松坂領・桑名領・亀山領・鳥羽領など他領百姓がこぞって感嘆しているという「風聞」を奉行は報告している。これは『宗国史』『公室年譜略』双方にある。ところが『公室年譜略』のほうは、もう二条、報告事項が多い。一つは、松坂領でも飢人への飯米貸与が行われたが、これは「御国廻り之沙汰以後の事」だったので、「津御仕置」のようには百姓が感服していない。もう一つは、鳥羽領などは巡見使が来るというので、にわかに「色々之だましことば、おどしことば」を加えて在々に言い聞かせるものだから、百姓も「俄なる御懇」とつぶやいて皮肉っている。『宗国史』にはこれがない。「風聞」の報告だが、これを史書に載せるのは他藩への批判を間接的に表明することになる。『宗国史』の編者藤堂高文も強い同時代批判の意識を持っていたが、彼は津藩の重臣であり藩主をも出す出雲藤堂家の一人である。その立場の憚りが、この二条の省略につながったのであろう。『公室年譜略』の編者は史家として、自序どおりひたすら真実を取り疑わしきを除くという姿勢に徹したために、危うい内部文書の収録になったのであろう。 |
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藤堂藩研究にとっての福音 | |||||
三重大学教育学部助教授 藤田達生 | |||||
待望の『公室年譜略』が、上野市古文献刊行会から刊行される。本書は、藤堂藩(伊勢・伊賀などで三二万石を領有)の初代藩主藤堂高虎・二代高次・三代高久の事績を、藩士喜田村矩常が編年集成したもので、「安永三年(一七七五)乙未夏六月」の自序がある。同藩には、既に藤堂高文編纂・藤堂高芬校訂の『宗国史』(上野市古文献刊行会によって一九七九・八〇年に刊行)があり、本書はこれを下敷きにして、藩主三代に関わる諸史料の検討のうえで成立した。 本書の特徴は、なんといっても家臣の仕官時期と紹介者が記されていること、また加増・昇進の時期、さらには跡目相続が許可された時期についても、詳細に記されていることにある。これらの情報は、高虎治世期に限定しただけでも、優に八〇〇件を越える。 近江国犬上郡藤堂村の土豪出身の高虎には、元来一族・郎党以外の家臣団はなかった。度重なる加増と大名化さらには国主大名への成長に伴い、早急に有能な人物を召し抱える必要に迫られたのである。 家臣団で注目されるのは、池田秀氏・菅達長・赤井悪右衛門などの没落大名衆、他家の重臣であった渡辺了や蒲生郷喜のような数万石を与えられた大身武士、村上水軍に属した来島氏の旧臣や改易された長宗我部氏遺臣などの四国系武士、さらには豊臣秀頼の旧臣などである。仕官受け入れのピークは、関ヶ原の戦いと大坂の陣の時期であり、特に大坂冬の陣に際して大量に召し抱えている。 興味深いのは、高虎がかつて仕えた織田信澄の子息信重の幕府への仕官を援助したことである。本能寺の変ののち、信重は芦田庄九郎昌隆と名乗り、高虎から援助を得ていた。関ヶ原の戦いに呼応して、高虎の所領であった南伊予では一揆(三瀬騒動)が発生するが、彼はその頭目三瀬六兵衛を討ち取った。また大坂夏の陣では、秀頼に属して家康も認める戦功をあげている。こののち信重は、高虎の推挙で旗本になった。 藤堂藩では、藩校有造館が活発に歴史編纂事業を進めた。そのなかで、『太祖創業志』(のちに増改のうえ藩主藤堂高兌撰『聿脩録』と改題して版行され、一九三〇年に『補註国訳聿脩録』として高山公三百年祭会から刊行)や『高山公実録』(上野市古文献刊行会によって一九九八年に刊行)といった、きわめて精度の高い藩史が編纂されている。 『宗国史』とともにこれらの基礎史料となったのが、『公室年譜略』である。本書の刊行をもって、初期藤堂藩の研究に必要な基本文献は、すべて翻刻されたことになる。長年にわたって、これらの一級史料を公刊することに研鑚された上野市古文献刊行会の方々に、心から敬意を表したい。 |