■城下町牢番頭仲間の生活 | |||||
清文堂史料叢書第118刊 | |||||
紀州藩牢番頭家文書編纂会編 | |||||
本書の構成 ○目次 ○凡例 第一章 御用と頭仲間……(解説 藤本清二郎) 第二章 口六郡締り方……(解説 市川訓敏) 第三章 岡嶋皮田村……(解説 安竹貴彦) 第四章 草場・旦那場・諸営業……(解説 寺木伸明) 第五章 寺と信仰……(解説 小笠原正仁) 第六章 吹上非人村……(解説 藤井寿一) 第七章 牢番頭家所蔵典籍……(解説 林 紀明 森 俊彦) ○あとがき 編者の関連書籍 紀州藩牢番頭家文書編纂会編 城下町警察日記 藤本清二郎著 城下町世界の生活史 藤本清二郎著 近世賤民制と地域社会 藤本清二郎編 和泉国かわた村支配文書 |
|||||
ISBN978-4-7924-0685-1 C3021 (2009.9) A5判 上製本 566頁 本体16,000円 | |||||
むずむずする資料 | |||||
大阪市立大学名誉教授 牧 英正 | |||||
題名の意味は後で御理解いただけよう。これは紀州藩の牢番頭家のほぼ一五○年にわたる御用記録である。 元文二年、牢番頭は奉行所から巾着切のさばきについて尋ねられた。頭たちは直ちに前例五件を挙げ、巾着切は「私共支配ニ仕候義ニ御座候ハヽ、古方(法)之通り衣類をはぎ、其上所持之物不残私共被下候…」と申上げたところ、古法之通にするようにと指示があり、科人の鼻を削ぎ国境まで護送し、裸にして追放している。その翌年、牢番頭は召捕って死罪となった科人の脇差・衣服・銀子等所持品を下付されたいと願い出た。奉行所は古例の提出を命じた。頭たちはすぐに先例五件を挙げ、願いはかなえられた。牢番頭たちは彼等が関わったさまざまな事柄を記録し、前例を踏襲し、下問に答え、あるいは既得権を守ったのである。 牢番頭は、牢番の外、城の掃除、行刑(伊勢松坂までも出張する)等を役としたが、命をうけて捕物、見廻り、施行等を行っている。記録は役のほか牢番株、名跡相続、芝居興行の取分、喧嘩、ま男の処理などさまざまな市井の雑事に及んでいる。 召捕には大がかりなものもある。元文二年、吉田兵衛門の召捕を命じられた牢番頭平八ら二名は人足四人を帯同して大坂長町に宿を取り、所縁の大坂長吏に協力を依頼、情報と助けを得て攝州勝王(尾)寺にひそむ兵衛門をつきとめ、鳶田長吏、近郷の番太五〇余名をもって取り囲み召捕った。奉行から「天下不(無)双之大手柄」と絶賛された。寛保三年には破牢した黒田数馬を京都・大津まで追跡している。縁組等により結ばれたのか、政治的組織とは別に支配を越えたネットワークが見られる。 目についたことをほんの少し書いてみる。正徳二年、非人番仁兵衛は「長吏手下ニ付候ヘハ、さがりにて有之候、自分と頭ニ成、郷中ノ番太共我手下ニ付ケ、長吏下をぬけ可申」と策動したが成功しなかった。嘉永元年、牢番頭たちは、八年前の御用のうち召捕と隠密内聞を停止され、その後無宿と皮田の召捕のみを認められたが在家有宿は停止のままである。頭たちの言い分は、盗賊は盗品の捌口から露見し、何事によらず縺事は内聞によって召捕るものである。自分たちは天正年中以来血脈を以て相続し御用を勤めてきたが、このように減役されては「役威」にかかわり「不都合不弁理」となるから旧に復してほしいと願い出た。後が欠けているので、どうなったか結果は不明である。 むずむずする資料と言ったのは、読んでいて、もっと調べてみたい、確かめたい、整理したい、考えたい等の衝動に駆られるという意味である。まことに中身の濃い記録である。 |
|||||
(平成十五年五月刊行の『城下町警察日記』に寄せられた原稿の再録です。) |
|||||
『城下町牢番頭仲間の生活』に学ぶ―近世身分の比較類型史への示唆― | |||||
大阪市立大学教授都 塚田 孝 | |||||
紀州藩牢番頭家文書編纂会の方がたの力で、『城下町警察日記』(二〇〇三年、以下『日記』と略す)に続いて今回『城下町牢番頭仲間の生活』(以下、『生活』)が刊行される。これらの史料は、九株の牢番頭仲間のうちの助左衛門家に残されたものとのことであるが、『日記』は牢番頭仲間や非人長吏らが勤める御用の詳細な記録である。一方、今回刊行される『生活』は、牢番頭仲間の形成や御用に関する文書や由緒書、彼らを含む岡嶋皮田村の規定や存在形態を示す史料、草場・旦那場など営業に関わる史料、寺と信仰に関する史料、紀州各地の皮田村との関係を示す仲間法式、頭仲間の管下にある吹上非人村に関する史料などを収録しており、これによって城下町和歌山のかわたや非人の身分集団構造を具体的かつ総括的に把握することが可能となった。 『日記』は、頭仲間の御用を勤める実態をビビッドに示すとともに、その対象となった出来事から城下町和歌山の都市社会状況を窺う画期的史料であった。しかし、日々の御用勤めのビビッドな記録であるが故に、御用を担う組織やそれらを取り巻く身分集団の全体構造は即自的には捉えにくい側面があった。今回の『生活』によって、岡嶋皮田村は、頭仲間と、落牛馬を支配する「穢多」、その他の者からなり、それら総体が「村」を形成していたこと、あるいは頭仲間から藩に対して働きかけて非人村が設定され、そこには家持非人と小屋非人が区別されていたことなど、社会集団としてのあり方を構造的に見て取れるようになった。それ故、頭仲間の下、村内から御用人足が出されるが、「穢多」はそこには含まれないこと、非人集団内に長吏や非人役人がおかれ、彼らは御用に動員されていることなど、集団構造と御用の勤め方の密接な関連が理解できるのである。こうして、今回の『生活』の刊行は、『日記』の理解を格段に深めることを可能にし、また『生活』で窺える集団構造のあり方は、日々の出来事を記す『日記』によって生気を与えられるのである。 『生活』および『日記』が、紀州のかわた身分・非人身分の実態や和歌山の都市社会状況を窺える稀有の史料として興味深いのはもちろんであるが、これまで関東や大坂周辺のかわた身分・非人身分について検討してきた私には、これによって近世身分の比較類型史ヘと誘われる大きな刺激を与えられた。関東のえた頭弾左衛門と同じく牢番頭仲間は紀州のかわた身分・非人身分をともに統轄しているが、かわた集団や非人集団の実態は両者が全く別組織を構成する大坂周辺と近いように思われる。一方、頭仲間らが探索御用で大坂に出向いた際には垣外仲間(非人)とのネットワークに依拠していた。また、かわた村内の落牛馬を支配する者だけを「穢多」と位置づけるのは他では見られない。これらの紀州におけるかわた集団・非人集団のあり方の特質は、集団構造の定着と展開の過程に基礎づけられているように思われるが、それはまた、各地のかわた集団・非人集団の固有の集団構造を探りながら、比較類型史的に考察することを要請しているのである。 |
|||||
※上記のデータはいずれも本書刊行時のものです。 |