幕末期狂言台本の総合的研究 和泉流台本編2
小林千草著


方言や口語の導入等で時代変化に対応した狂言役者の活動を通じて、近代化をめぐる日本人の能力の高さを再発見する。



■本書の構成

 はじめに

第Ⅰ部 幕末期狂言台本の書誌的研究と日本語学的・表現論的研究

 第一章 成城〈丙〉本「文山賊」の資料的性格と用語

 第二章 成城〈丙〉本「縄なひ」の資料的性格と用語(一) ―幕末期狂言台本の複雑な成立と古層の残存状態―

 第三章 成城〈丙〉本「縄なひ」の資料的性格と用語(二)  ―明和中根本を加えての詳細比較考察―

 第四章 成城〈乙〉・〈丙〉・〈丁〉本所収「地蔵舞」の性格と用語

 第五章 成城〈丁〉本「宗論」の資料的性格と用語

 第六章 成城〈丁〉本「呂れん」の資料的性格と用語

 第七章 成城〈遠山〉本「瓜ぬす人」の資料的性格と用語

 第八章 成城〈遠山〉本「福の神」の資料的性格と用語

 終 章『和泉流台本編1』『和泉流台本編2』、および、本シリーズをふりかえって

第Ⅱ部 幕末期和泉流狂言台本およびその周辺の台本 翻刻

 凡 例

 成城〈丙〉本
  「文山賊」/「地蔵舞」/「魚説法」/「引くゝり」/「芥川」/「痩松」/「膏薬煉」/「縄なひ」

 成城〈丁〉本
  「蟹山伏」/「清水」/「呂れん」/「餅酒」/「宗論」/「鬼瓦」/「舟舩」/「因幡堂」/「柿山伏」/「竹生嶋参り」/「成上り」/「悪太郎」/「盆山」/「蟹山伏」/「地蔵舞」/「岡大夫」

 成城〈遠山〉本
  「不聞座頭」/「宝の槌」/「瓜ぬす人」/「福の神」/「悪太郎」/「鈍根草」

 あとがきⅠ
 巻末索引
 本シリーズ総目次
 あとがきⅡ




  ◎小林千草(こばやし ちぐさ)……1946年生まれ 東海大学文学部特任教授 博士(文学 東北大学) 佐伯国語学賞・新村出賞受賞 2021年逝去




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ISBN978-4-7924-1441-2 C3081 (2023.2) A5判 並製本 588頁 本体12,000円
 

    幕末期狂言台本の総合的研究 和泉流台本編 ――幕末期の悪戦苦闘が生んだ新台本群――

 小林千草
 成城大学図書館蔵『狂言集』一四冊の内、大蔵流台本群(『幕末期狂言台本の総合的研究 大蔵流台本編』として二〇一六年一〇月清文堂刊)、鷺流台本群(『幕末期狂言台本の総合的研究 鷺流台本編』として二〇一八年一月清文堂刊)以外の、残る五冊は全て和泉流台本群であると言いたいところであるが、精査を重ねるうち、筆者が〈甲〉本・〈乙〉本・〈丙〉本と名づけた三つの台本のみが和泉流台本と把握してよく、残る二冊は幕末期の和泉流と他流交流のなかでもたらされた複合種の台本とみなされた。

 そこで、和泉流台本編1では、確実に和泉流台本であると推定され、かつ、書体や装丁形態より密接な関係にある〈甲〉本と〈乙〉本を扱い、和泉流台本編2では、〈甲〉本・〈乙〉本とは性格を微妙に異にするものの和泉流台本であることが確実な〈丙〉本、および、和泉流台本そのものではないが、和泉流系狂言役者の元で主として大蔵流狂言役者の協力(時に主導的位置を占めた可能もある)により書写収集されたと思われる〈丁〉本と〈遠山〉本とを扱うこととした。

 〈甲〉本と〈乙〉本は、宗家や有力弟子筋からはやや距離をもちつつも、台本構成やセリフ構成の点では優れた台本が幕末期まで伝承されてきたものであり、和泉流〈雲形本〉の書写者であり山脇和泉家第七代目であった和泉元業(もとなり)が旧来のものとして一時期許容していた指定辞「ぜあ」が生き生きと使われている曲目があり(〈甲〉本の全て、〈乙〉本の一部)、国語史上も、また、山脇和泉家が名古屋を本拠地とするところから方言的な意味合いをもこめて、注目される。さらに、〈甲〉本・〈乙〉本には、「抜き書き」形態をとるものがあり、役者が上演にあたってその役に関わるセリフ群のみの書写を許可された背景がうかがわれ、現実に活用されていた台本としての“鮮度”は極めて高いと言わざるをえない。〈甲〉本・〈乙〉本が〈雲形本〉系の詞章をもつのに対し、〈丙〉本は〈波形本〉
系の詞章をもつ。このバランスのよさは、どこから来ているのであろうか。

 一方、〈丁〉本・〈遠山〉本 には、元禄期以降、版本「狂言記」シリーズとして刊行され“読み物”としても人気のあった『狂言記』『狂言記外五十番』『続狂言記』『狂言記拾遺』などとも深く関わる曲目があり、台本の具体的対照検討は、〈丁〉本・〈遠山〉本の資料的・言語的性格のみならず、筋の流れ(ドラマ展開)やセリフ上の関連を有する他台本の性格や用語・表現までをスポットライト的ではあるがかなり深く照射することが出来た。

 幕末期、能狂言上演の庇護者(パトロン)であった幕府・諸大名から成る幕藩体制瓦解の兆しを敏感に感じ取った各流の底辺に位置する狂言役者たちが、自分たちの生活の基盤としての上演台本としてどのようなものを志向していったかの一班が、〈丁〉本・〈遠山〉本を考察することによって描けたのではないかと考える。

 〈丁〉本・〈遠山〉本に所収された曲ごとに、その様相は微妙に相異し、曲ごとにそれら各流の底辺に位置する狂言役者たちが頭を悩ませ、自己の積年の稽古・伝承から何を主張し何を譲ったかの軌跡をたどることが可能である。結果として生み出された新しい台本は、文明開化以降の明治近代文学にもひけをとらない文学的な質の高さを有しており、尊敬にあたいするものであった。成城大学図書館蔵『狂言集』一四冊のうち、大蔵流台本群・鷺流台本群についで、和泉流台本編1に所収したもの、和泉流台本編2に所収したものが、台本として優れた作品群であり、狂言の“伝承性”と言語の“当代性”に関する示唆に富む資料群であったことは、研究者としての私の“幸せ”と言ってよいであろう。全てに感謝する次第である。

        *        *        *

 以上の紹介文を遺されたまま、本書もまもなく校了という令和三年(二〇二一)秋、小林千草先生は突如として旅立たれました。
 「シリーズとしての本書を『総合的研究』と命名した意図も、単に書誌的研究・国語学的研究・表原論的研究、あるいは狂言研究に留まらず、どの時代の人々も“優れたことば・表現の担い手”であり、人々はその時代を生きるためにことばを紡いで形あるものを表現してきたという“人間の歴史”の一コマを描こうとするところにあった」との言が「終章」にありますが、方言や当時の口語の導入その他、本書において強調された幕末前後の狂言役者の時代変化への対応は、先生によれば幕末以降の近代化への日本人全体の対応能力の一面でした。これは、『百人一首を読む 幕末・嵯峨山人の口語訳とともに』でも、嵯峨山人(小林説では、鍋島直正に殉死した古川松根)の百人一首の講義を受講していた武家女性の知的素養の高さでも強調されていた問題でもあり、同書中の「言語の疎通と豊かなやりとりは、国力の第一」との一節が印象に残ります。生前、先生が「言葉は生きている」と話されていた通り、言葉は手段に留まらず、歴史や文化と同様に文化的に豊かな暮らしを形成する上で、人々にとって、かけがいの無い要素なのかもしれません。スペインでカタルーニャ語、ウェールズ等でゲール語を守ろうという運動が盛んなのも、何やら軌を一にしているようでもあります。小林先生の問題提起と志は、色褪せることなく生き続けています。今はただ、小林先生のご冥福をお祈り申し上げます。 
 (編集部)
※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。