■日本語学講座 全10巻 | |||||
今野真二著 | |||||
多彩な文献から日本語の歴史を読み解き 日本語学の方法とあり方とを提示する 新時代の日本語講座 第1巻 書かれたことば(第1回配本 好評配本中) 文字化された言語の重層的で多様なあり方をさまざまな文献から読み解く 目次 序章 明治期に書かれたはがき 少年文学 字引類のことば 六つの『虞美人草』 第一章 書かれたことば 音声言語/文字言語 音声言語と文字言語とは一致するか? 書かれたことば 「総ルビ」の新聞―『絵入自由新聞』を例として― 第二章 言葉の身体性―明治期の手書き文献― 明治期のはがき 回覧雑誌 さまざまな手書き文書 第三章 『少年文学のことば』 巌谷小波『こがね丸』 『少年文学』におけるこどものことば 少年のことば 第四章 字引類のことば 二つの字引の概観 字引類がどのように編集されているか 字引類の注解 字引類のことば 第五章 六つの『虞美人草』 東京朝日新聞と単行本初版との対照―「カチヤリ・カチリ」― 単行本初版と単行本第六版との対照―「半巾・手巾」― 単行本初版と『鶉籠虞美人草』初版との対照 縮刷本『虞美人草』初版 著者の関連書籍 今野真二著 仮名表記論攷 今野真二著 大山祇神社連歌の国語学的研究 |
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ISBN978-4-7924-0924-1 C3381 (2010.11) A5 判 上製本 216頁 本体3,500円 | |||||
刊行にあたって | |||||
今野真二 |
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学生から専門は何かと聞かれることが時々ある。以前は「日本語学で、現代ではなくて過去の日本語を扱います。時期は中世期で、表記にも興味があります」と答えていた。十年ほど前から明治期の文献にも興味を持ち始めた。論文を幾つか書き、まとめたものも出版してもらって、去年のことだっただろうか。同じようなことをきかれた時に「中世期と明治期との文献を扱っています」とごく自然に答えていたことに気づいた。少し前から、「日本語の歴史と表記とが分析対象である」と口にするようになっていた。過去の日本語を観察するのだから、まずは「文献」。扱う時期は「中世期」と「明治期」。「日本語の歴史」と「表記」とが興味の対象で、「文献」は「辞書体資料」と「非辞書体資料」に分ける。分析方法としては二つのテキストの「対照」という方法をよく使う。こんな一人の人間が、書きたいことがこれだけあると言った時に、じゃあそれをシリーズのようにして出版しましょうと言ってくれた出版社があった。それが清文堂出版である。一年に一冊ずつ、十年で十冊という計画である。今の時点で、こうして第一巻から第十巻まで並べると、大言壮語以外の何物でもない。しかし、もしもこれを書ききることができれば、一人の人間が統一的な視点によって書いた日本語学の本であることにはなる。それはそれで何らかの価値があるだろうと思いたい。「日本語学講座」も面はゆいが、精進して、心身の健全さを保ち、最終巻の刊行までこぎつけたいと思う。 |
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第1巻 書かれたことば(既刊) 音声言語との「回路」を維持しながら多様な展開を示す「書かれたことば」を「言語の身体性」に着目しながら提示することを試みた。 第2巻 二つのテキスト(上)明治期以前の文献 冷泉家時雨亭文庫に蔵される「擬定家本」「資経本」「承空本」などを採り上げ、書写に際して、もともとのテキストがどのように書写されているかについて具体的に論じ、そこから言語に関わる知見を引き出すことを試みた。 第3巻 二つのテキスト(下)明治期の文献 明治期の文献は、整版、銅版印刷、活字印刷というようなさまざまな印刷方法によって、文字化されている「同じ」テキストが異なる印刷方法によって文字化されることによって、どのように変化するのか。その変化を言語の学としてはどのようにとらえればよいのかについて論じることを試みた。 第4巻 連合関係 『新撰字鏡』『類聚名義抄』の和訓、『色葉字類抄』の畳字部、キリシタン資料の「ことばの和らげ」などの辞書体資料及び『万葉集』、連歌、北原白秋の短歌の推敲など、非辞書体資料を対象として、「連合関係」というみかたを導入することによって、言語に関わるさまざまな知見を引き出すことができることを示した。 第5巻 『節用集』研究入門 これから古本『節用集』の研究を始めようとする人のために、これまでの研究を整理し、現在どのような地点に到達しているのかを示した。併せて今後の方向性を示すことを心掛けた。 第6巻 明治期の辞書 明治期には「漢語辞書」「英和/和英辞書」「国語辞書」などが陸続と刊行された。それらを総合的かつ具体的にとらえることによって、明治期の日本語のありかたを探る方法を示すことを試みた。 第7巻 ボール表紙本 明治期に刊行された「ボール表紙本」は、書物の装幀による命名である。そう呼ばれるテキストの内容は、江戸期刊行の文学作品・実録物・草双紙が活字化されたものから、外国文学の翻訳などまで多様である。また版元を変えながら印刷が繰り返されていることが少なくない。これまで日本語学の資料とされることがほとんどなかった資料群であるが、そこから明治期の日本語に関わる知見を引き出すことを試みる。 第8巻 自筆原稿 自筆原稿は、さまざまな言語上の事象が「露呈」する「現場」でもある。森鴎外、夏目漱石、鈴木三重吉、有馬生馬、宮澤賢治、中島敦、井上究一郎などの自筆原稿及び日夏耿之介の自筆校正紙などを採り上げ、それぞれが書かれた時期の日本語に関わる知見を引き出すことを試みる。 第9巻 仮名の歴史 日本語を書き表わす文字として、仮名がどのような機能をもち、その機能を変化させていったかについて、漢字を視野にいれながら、論じることを試みる。 第10巻 言語の揺れ 第一巻から第九巻において採り上げた言語事象、文献にひろくふれ、全体のまとめをしながら、言語がいろいろな点で「揺れる」ということが、言語にとってどのようなことであるかについて考えてみる。 いずれもA5判上製 カバー装 210〜270頁 各巻本体3,500円 全巻完結 |
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綿密な調査の見事な理論化 | |||||
筑波大学名誉教授 小松英雄 |
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本書の読者は、まず、冒頭のつぎの一文の意味を的確に理解しなければならない。 本書では改めて「書かれたことば」という観点から文献を注視し、また文献を注視することによって、「書かれたことば」ということがらについて考えてみたい。 うっかり読み流してしまいそうであるが、著者の言う「書かれたことば」とは、専門の研究者までが、概念の確定された用語であるかのように使っている「書き言葉」と同義ではない。ユニークなタイトルで目を引き、斬新な方法で注目された『消された漱石 明治の日本語の探し方』(2008)で実験ずみの「書かれたことば」の解明をさらに深め、方法として確立しようというのが本書のねらいである。 この小文の筆者は、日本語において複数の文字体系がどのように運用されてきたかに関心をいただいて、それなりに研究を続けてきたので、今野さんのお仕事にことのほか親近感をおぼえ、折々に刺激を受けてきたが、このたびも、文字のぎっしり詰まったページをめくるのがもどかしい思いで読了した。微細にしかみえないところに大切な問題を見いだして丹念に調査し、もろもろの現象を自家薬籠中のものにして理論化できる著者の力量に快い驚きが残った。好きでなければとてもできない仕事である。巨視的には似たような目標を目指している小文の筆者には、対象に対する著者の愛着がそのまま伝わってくる思いがする。 同時期の日本語と密接不可分に捉えた書記(writing)の本格的研究は、まだ緒についたばかりである。著者は今後ともこの領域の主導的立場にありつづけるであろうが、文法論などと違って研究者人口はきわめて少ない。理論も方法も、互いに切磋琢磨してこそ洗練される。若い世代の人たちが本書に啓発されてアクティヴな研究者集団が形成されるなら、研究の水準は飛躍的に向上し、また深化するであろう。 |
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書かれた言語の多様にして豊穣な世界を示す | |||||
大阪大学大学院教授 金水 敏 |
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大学一年生を対象に、私は毎年日本語史の通史を教えているが、近世以前の資料を学生に見せていると、必ず学生が質問してくることがらがある。「どうして変体仮名なんかあるんですか。だれも統一しようと思わなかったんですか」「どうして濁点とか句読点とか使わないんですか。読みにくくないんですか」等々 気づいているひとは少ないが、自国語を法令や教育によってトップダウン的に“統一”するという発想は近代国民国家に特有のことがらである(例外と見える事象も歴史上はあるが、規模や方法がまったく異なる)。この種の事例の常として、一旦そういった統一が世に行き渡ると、そこに住まうわれわれはそれ以前の様相がまったく想像できなくなってしまう。とくに、「書かれたことば」にはそういう側面が強い。そのことが、先の学生たちの質問にもよく現れている。 今野氏は『書かれたことば』の中で、音声言語と文字言語を独立の言語態と認めながら、「両者の間には両者を行き来できる何らかの「回路」がつねに確保され」「文字言語は音声言語に裏打ちされている/縁取られている」(四三〜四四頁)と言う。典型的な文字言語と音声言語との間に存在するさまざまな様態を持った言語を、今野氏は「書かれたことば」と呼ぶのである。具体的には、はがき、少年文学、字引類、夏目漱石の『虞美人草』が中心的な分析となっているが、木簡・抄物・連歌等、さまざまな文字言語資料が縦横に駆使されている。まさに氏の真骨頂である。今野氏は、近世と言わず、近代初頭においてすら、「書かれた言語」の多様にして豊穣な世界があったことを示した。音声言語の身体性とはまた異なる身体性が、特に肉筆はがきや作家の原稿に露呈するさまも今野氏は余さず分析し尽くす。 今野氏の分析は、われわれが当然のことと見ている今日の文字言語の体系が、極めて新しくまた歴史上かつてない特殊な様態にあることを説得的に教えてくれる。日本語のみならず言語の歴史に関心を寄せるものにとって、魅力の尽きない好著である。 |
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今野日本語学の一つの頂点 | |||||
元成城大学文芸学部教授 工藤力男 |
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昨年刊行された二書、『大山祇神社連歌の国語学的研究』『文献日本語学』を読みおえて、その余韻が消えやらぬうちに、今野氏の次の著者が出るという。 本書は、明治期のさまざまな文献を対象にして、『消された漱石』を引き継ぐ書である。記述姿勢は前著『文献日本語学』に近いが、さらに平易になっている。壮年の入り口にして円熟の域に達したというべきか。読者としては大いにありがたい。厳しい実証家である著者は鋭い理論家でもある。その両面が本書においても遺憾なく発揮され、特に書名でもある第一章「書かれたことば」に著しい。それを受けた第二章「言語の身体性」の展開も興味が尽きない。巻末まで一気に読ませる簡潔さも大きな魅力である。 本書は、『日本語学講座』全十巻の初巻なのだという。今の時点で全体を提示する大胆さと周到さにも驚く。だが、著者の旺盛な執筆力からすると、それは大言でも壮語でもあるまい。おそらく五年も要せずに完結するだろう。わたしは老齢耄碌のを労わり、最終巻を冥途のみやげにしたいが、著者はこれを一通過点として次の峰を目ざすに違いない。それなら長生きして、その新しい今野ワールドも見たいものである。 著名な二氏の推薦文に並んで、その末席を拙文が汚すことになった。氏の著作に敬服して、在職していた学校への出講を請うたところ、快諾して、三年のあいだ熱情あふれる講義をしてくれた。その好意へのお礼のしるしである。 |
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※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。 |